ひつじ通信の最新刊が届いたので、ルネサンスの話はひとまず置いて、記事の感想を書いてみたい。
特集「世の中をよくする私の提言」は、4人の執筆者の個性が際立っていて興味深い。 年号廃止など社会政策の提言、スポーツエンタテイメントの提言、歴史と宗教の起源に基づく考察、個人目線からの現実的考察、と、切り口はバラバラだ。 しかし、いずれの提言も現実を誠実に見つめ、熟考を重ねた上で述べられた言葉であることが良く分かり、なかなか示唆に富んでいると思う。
「学校教育問題問答 徳育・上の巻」 は、高校教師である夏木氏と由紀氏による対論。 今回は教育再生会議が提言した「徳育」がテーマである。 ふだん教育の現場から遠い素人にしてみると、まず徳育という言葉になじみがない。 とりあえずネットで調べて見ると、「教育再生会議 報告・取りまとめ等」 という資料が見つかった。 徳育については、いくつかの資料に分散して記述が見られるが、最終報告に、次のような集約された提言が記されている。
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(心身ともに健やかな徳のある人間を育てる)
○ 徳育を「教科」として充実させ、自分を見つめ、他を思いやり、感性豊かな心を育てるとともに人間として必要な規範意識を学校でしっかり身に付けさせる。
○ 家庭、地域、学校が協力して「社会総がかり」で、心身ともに健やかな徳のある人間を育てる。
○ 体育を通じて身体を鍛え、健やかな心を育む。
○ 「いじめ」、「暴力」を絶対に許さない、安心して学べる規律ある教室にする。
○ 体験活動、スポーツ、芸術文化活動に積極的に取り組み、幼児教育を重視し、楽しく充実した学校生活を送れるようにするとともに、ボランティアや奉仕活動を充実し、人、自然、社会、世界と共に生きる心を育てる。
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これをみて、なるほど、と思った。 素人の私でも、この教育再生会議の提言が、いかに抽象的で、むなしく、意味の薄い内容であるか良くわかる。 こんな落書きにも等しい文章を上から無責任におしつけられ、ますます無駄な仕事を増やさねばならないとしたら、全くやりきれないことと思う。 もちろん、人ごとではない。 自分も子供が学校に通っている以上、先生たちが下らない仕事に振り回されるのは大変困るし、何より社会全体として大きな損失だ。
さて、ひつじ通信の記事だが、夏木氏の発言は、再生会議の提言の欠点を具体的に分析していて分かりやすい。 すなわち、徳育の中身がはっきりしていないこと、教育される側の都合を考えていないこと、コストを全く考えていないこと、である。 一方、由紀氏は、戦後の教育政策の経緯をふまえ、徳育(道徳教育)というものが、その当否は別として、何らかの成果を上げることがいかに困難か、ということを述べており、これも説得力がある。
興味深いのは、再生会議の提言とは別に、「本来必要な道徳教育」について、由紀氏が問題提起し夏木氏が一定のモデルを提示している点である。 ここで詳細を説明するのは難しいが、記事では「よい道徳と悪い道徳」という見出しで解説されている。 「宗教的な善悪感」を絶対視した「道徳」は困るが、「価値の交換」という合理的な規範にもとづく「道徳」は必要だ、という主張。 思想といっても良い、深い話だと思う。
最後の章では、自分達が社会に対して、どのようなメッセージを発するべきか、という点で意見交換がなされている。 ここでは、両氏の意見が微妙に異なっていて面白い。 前章で提案された道徳原理は、いわば経済的な価値観に近いのだが、この考え方は、社会一般には受けが悪いのではないか、というのが由紀氏の懸念である。 確かに、人々が宗教的であること自体、いくら否定しようとしても、容易に突き崩せるものではないのが現実であろう。 合理的な価値観を主張した結果、不運にも「身勝手」な人間という評価を、逆に受けてしまう可能性は高い。 このことについて、夏木氏は、宗教的な善悪感がもたらす「身勝手」な権力に対抗する唯一の手段は、合理的な価値観に従って自分も「身勝手」になることだ、と述べている。
両氏の違いが、単に信条の問題なのか、それとも何か戦略的な考えに基づいているのか、私には良く分からないが、いずれにせよ、そこに容易には解決しえない課題があることには違いない。 今後の、ひつじ通信の記事の展開に期待したい。
関連サイト : ひつじ通信 ひつじ掲示板2
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