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フランドル楽派 ~ ミサ曲 「パンジェ・リングァ」

フランドル楽派の作曲家の多くが教会に仕えていた、ということで、教会用のミサ曲は、その重要なレパートリーとなっている。 前の記事のジョスカン・デ・プレ も多くのミサ曲を書いており、中でも晩年の作品である、ミサ 「パンジェ・リングァ」 は評価が高い。 

パンジェ・リングァ ( Pánge língua ) はラテン語の言葉で、「舌で祝え」と直訳されるが、「ほめたたえよ」 というような意味かと思われる。 元々は、中世イタリアの神学者 トマス・アクィナスの詩に由来し、さらに、その詩には、いつの頃か明らかではないが、旋律がつけられ、グレゴリオ聖歌として伝承されている。

Pange_lingua_2

    ( dakuserukun さんによる翻訳

    舌で祝え、
    栄光の体と貴重な血の秘蹟を
    その血は、この世の代価として
    高貴な母胎の果実にして
    国々の王である方が流したものである

ジョスカン・デ・プレ は、この聖歌の旋律を使い、ミサ曲 (KYRIE, GLORIA, CREDO, SANCTUS, AGNUS DEI ) を構築した。 各楽章は、いずれも、フランドルのミサ曲の特長が、非常に良く表れている ・・・ すなわち、4つの声部が対等に旋律を歌い上げ、それぞれの旋律は少しづつ遅れて重なりあい、かつ美しい和声を響かせる。 旋律はとてもなめらかで、節目が抑制され、非常に息の長いフレーズを持つ。 そのため、曲を聴きながら意識して旋律を追いかけようとしても、そのうち、何だか訳がわからなくなってしまうのでもあるが...。 いわば天上の音楽ともいえる、このような曲は、できることなら星空の見えるような場所で、雑事を忘れ無心になって聴くことができると理想的ではないかとも思う...なかなか実現できないけれど。

フランドル楽派 ~ 「千の悲しみ」

フランドル楽派を代表する作曲家、ジョスカン・デ・プレ の有名な作品に 「千の悲しみ」 という歌曲がある。 彼は、1500年ごろに、フランス王の宮廷に仕えており、その宮廷内の趣向に応じて、メランコリックな旋律の愛の歌をいくつか作っている。 そのような作品の一つがこの曲である。Photo_2

~~~~ Mille Regretz ~~~~

幾千もの悲しみ、それは、
あなたをあきらめるということ
あなたの愛らしい顔を背にして
去りゆくこと
そのあまりの悲しさと
痛いほどの苦しさゆえ
もはや私の命はしぼみ
消えてしまうにちがいない
~~~~~~~~~~~~~~~

歌詞からすると、これは失恋の歌だろうか。 ( 音楽史の本やネットの記事に、この歌についての記述が見られるが、歌詞の解釈まで書かれた資料を見つけきれていない。) なお、前回記事の 「楽しき暮し」 同様、この曲も後世の作曲家により、様々な形式に編曲され、親しまれたようだ。

ヴェルドロ以前の音楽 ~ フランドル楽派

前々回の記事で、ヴェルドロ以前の音楽として、フロットーラについて書いた。 紹介した曲の作曲者で、当時の最も優れた音楽家とみなされている ジョスカン・デ・プレ は、主に、イタリアで活躍したのだが、その出身地はフランドル地方 (今のベルギー西部周辺 )であった。 ジョスカン同様、その時代のヨーロッパ各地で名声のあった音楽家の多くは、フランドル出身であることが多く、まとめて、フランドル楽派 と呼ばれている。

当時の作曲家達は、教会に属してミサ曲などを作るのが主な仕事であったらしいが、一方で宗教的でない歌詞による作品 (世俗曲) も数多く残している。 中には流行歌としてヨーロッパ中に知れ渡る作品もあったようで、ここでは、そんな曲の一つ Ein frohlich wesen (楽しき暮し) を紹介する。 作曲者は、1400年代後半に活躍した バルビロー というフランドル出身の音楽家で、主にアントウェルペン(アントワープ)で、生涯を過ごしたらしい。
The_art_of_the_netherlands_2
~~~ Ein frohlich wesen ~~~

楽しく暮らすとしよう
私のそばを見まわして。
遠い国にも行ってはみたが
わかったことは
どこを見てもやっかいなことばかり
ここにいるのも旅に出るのも同じこと。
この大地の上で、私はそう思うのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~

この曲は、広く親しまれると共に、他の作曲家達がテーマを借りて、様々な形式に編曲している。

ひつじ通信 第42号

ひつじ通信の最新刊が届いたので、ルネサンスの話はひとまず置いて、記事の感想を書いてみたい。

Photo_2特集「世の中をよくする私の提言」は、4人の執筆者の個性が際立っていて興味深い。 年号廃止など社会政策の提言、スポーツエンタテイメントの提言、歴史と宗教の起源に基づく考察、個人目線からの現実的考察、と、切り口はバラバラだ。 しかし、いずれの提言も現実を誠実に見つめ、熟考を重ねた上で述べられた言葉であることが良く分かり、なかなか示唆に富んでいると思う。

「学校教育問題問答 徳育・上の巻」 は、高校教師である夏木氏と由紀氏による対論。 今回は教育再生会議が提言した「徳育」がテーマである。 ふだん教育の現場から遠い素人にしてみると、まず徳育という言葉になじみがない。 とりあえずネットで調べて見ると、「教育再生会議 報告・取りまとめ等」 という資料が見つかった。 徳育については、いくつかの資料に分散して記述が見られるが、最終報告に、次のような集約された提言が記されている。
-----------------------------------
(心身ともに健やかな徳のある人間を育てる)
○ 徳育を「教科」として充実させ、自分を見つめ、他を思いやり、感性豊かな心を育てるとともに人間として必要な規範意識を学校でしっかり身に付けさせる。
○ 家庭、地域、学校が協力して「社会総がかり」で、心身ともに健やかな徳のある人間を育てる。
○ 体育を通じて身体を鍛え、健やかな心を育む。
○ 「いじめ」、「暴力」を絶対に許さない、安心して学べる規律ある教室にする。
○ 体験活動、スポーツ、芸術文化活動に積極的に取り組み、幼児教育を重視し、楽しく充実した学校生活を送れるようにするとともに、ボランティアや奉仕活動を充実し、人、自然、社会、世界と共に生きる心を育てる。
-----------------------------------
これをみて、なるほど、と思った。 素人の私でも、この教育再生会議の提言が、いかに抽象的で、むなしく、意味の薄い内容であるか良くわかる。 こんな落書きにも等しい文章を上から無責任におしつけられ、ますます無駄な仕事を増やさねばならないとしたら、全くやりきれないことと思う。 もちろん、人ごとではない。 自分も子供が学校に通っている以上、先生たちが下らない仕事に振り回されるのは大変困るし、何より社会全体として大きな損失だ。

さて、ひつじ通信の記事だが、夏木氏の発言は、再生会議の提言の欠点を具体的に分析していて分かりやすい。  すなわち、徳育の中身がはっきりしていないこと、教育される側の都合を考えていないこと、コストを全く考えていないこと、である。 一方、由紀氏は、戦後の教育政策の経緯をふまえ、徳育(道徳教育)というものが、その当否は別として、何らかの成果を上げることがいかに困難か、ということを述べており、これも説得力がある。

興味深いのは、再生会議の提言とは別に、「本来必要な道徳教育」について、由紀氏が問題提起し夏木氏が一定のモデルを提示している点である。 ここで詳細を説明するのは難しいが、記事では「よい道徳と悪い道徳」という見出しで解説されている。 「宗教的な善悪感」を絶対視した「道徳」は困るが、「価値の交換」という合理的な規範にもとづく「道徳」は必要だ、という主張。 思想といっても良い、深い話だと思う。

最後の章では、自分達が社会に対して、どのようなメッセージを発するべきか、という点で意見交換がなされている。 ここでは、両氏の意見が微妙に異なっていて面白い。 前章で提案された道徳原理は、いわば経済的な価値観に近いのだが、この考え方は、社会一般には受けが悪いのではないか、というのが由紀氏の懸念である。 確かに、人々が宗教的であること自体、いくら否定しようとしても、容易に突き崩せるものではないのが現実であろう。 合理的な価値観を主張した結果、不運にも「身勝手」な人間という評価を、逆に受けてしまう可能性は高い。 このことについて、夏木氏は、宗教的な善悪感がもたらす「身勝手」な権力に対抗する唯一の手段は、合理的な価値観に従って自分も「身勝手」になることだ、と述べている。

両氏の違いが、単に信条の問題なのか、それとも何か戦略的な考えに基づいているのか、私には良く分からないが、いずれにせよ、そこに容易には解決しえない課題があることには違いない。 今後の、ひつじ通信の記事の展開に期待したい。

関連サイト : ひつじ通信  ひつじ掲示板2

ヴェルドロ以前の音楽 ~ フロットーラ

前の記事の作曲家ヴェルドロが活躍する少し前、1500年頃のイタリアで流行していた音楽を フロットーラ という。 軽快なリズムと、単純な節回しで歌詞を繰り返すのが特徴だ。 ここでは、ヴェルドロより 30歳ほど年上の作曲家 ジョスカン・デ・プレ が作ったフロットーラを2曲紹介したい。

~~ スカラメッラは戦いに ~~

スカラメッラは戦いに行く
槍と盾を手に持って
Renaissance_pipe_drum_2ラ ゾンベローボロ ボロンベッタ
ラ ゾンベローボロ ボロンボー

スカラメッラは浮かれて騒ぐ
ブーツと靴を両方はいて
ラ ゾンベローボロ ボロンベッタ
ラ ゾンベローボロ ボロンボー
~~~~~~~~~~~~~~

~~~~ こおろぎ ~~~~~

こおろぎは歌が上手
のびやかな声で歌うのだ
さあ飲め、こおろぎ歌え

こおろぎは鳥とは違う
鳥はちょっと歌っただけで
すぐどこかへ飛んでいく

こおろぎは、
いつでもずっとそこにいる
とっても暑い夏の日も
ひたすら愛を歌うのだ
~~~~~~~~~~~~~~

歌詞は、こちらのサイト の英訳を参考にした。 それにしても、歌詞の内容だが、どちらの曲もいったい何を言いたいのか、今ひとつ良く分からない。 「こおろぎ」の方は、一説によると、作者ジョスカンの仲間の Carlo Grillo (こおろぎ)という名前の歌手のことを、ふざけて唄っているといわれている。(上記サイトの解説による。) また、皆川達夫 著「中世・ルネサンスの音楽」 によれば、フロットーラというのは 「官能的ないし卑猥なイタリア語の歌詞」 によった歌曲だという。 いわれてみれば、「スカラメッラ」も「こおろぎ」も、何となくそのように読み取れないこともないか。
  

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