◇ 古典というものは難しい。 中でも、マキアヴェッリが書いた 「君主論」 は、大変理解しにくい本だと思う。 文章の意味が難解だからというわけではない。 むしろ逆で、意味は明快なのだが、その主張があまりに非道徳的で受け入れ難い( と思ってしまう )内容だからである。 以下は、塩野七生の著書 「マキアヴェッリ語録」 の引用。
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( 君主論 第18章からの抜粋 )
君主たらんとする者は、種々の良き性質をすべてもち合わせる必要はない。
しかし、もち合わせていると、人々に思わせることは必要である。
いや、はっきり言うと、実際にもち合わせていては有害なので、もち合わせていると思わせるほうが有益なのである。 思いやりに満ちており、信義を重んじ、人間性にあふれ、公明正大で信心も厚いと、思わせることのほうが重要なのだ。
それでいて、もしもこのような徳を捨て去らねばならないような場合には、まったく反対のこともできるような能力をそなえていなければならない。
君主たる者、新たに君主になった者はことさらだが、国を守りきるためには、徳をまっとうできるなどまれだということを、頭にたたきこんでおく必要がある。
国を守るためには、信義にはずれる行為でもやらねばならない場合もあるし、慈悲の心も捨てねばならないときもある。 人間性をわきに寄せ、信心深さも忘れる必要に迫られる場合が多いものだ。
だからこそ、君主には、運命の風向きと事態の変化に応じて、それに適した対応の仕方が求められるのである。 また、できれば良き徳からはずれないようにしながらも、必要とあれば、悪徳をも行うことを避けてはならないのである。
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◇ これは、あんまりだ。 まるで、数年前までの一時期、日本の国民から高い支持を得ていた、自民党の小泉元首相のやり方そのものではないか。 ある人によると、彼は自民党をぶっ壊すと言いながら、日本をぶっ壊してしまったという。 私も同感だ。 今回の恐慌状態に陥る以前から、すでに、雇用不安が拡大し、医療・介護・教育など公的支援の必要な制度がガタガタになっていたのは周知の事実である。 こんなやり方を君主の理想とするなど、とても納得できるものではない。
◇ というのが率直な感想なのだが、何しろマキアヴェッリというのは、歴史に名だたる思想家だ。 そう簡単には割り切れない。 それに、君主論が書かれたのは、約 500年前の、いわば戦国時代のイタリアである。 時代背景を踏まえて考える必要もある。 そういう観点からすると、以下の、佐々木毅 (訳注) 「君主論」 の解説は分かりやすい。
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( まえがきより )
一つ、ほとんど誰でも気がつくのはこれが深刻な政治危機と深く結びついているということである。 ・・・・・・ (権力という) 人間的結合を、相互の信頼関係が極めて希薄な危機的状況の中で、一人の個人の力量に頼って創出しようというのであるから、尋常ならざる能力と巧みな人間操縦術が必要なことは目に見えている。 彼が固執した統治術というのはこうした次元を不可欠な要素として含まざるを得なかった。
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◇ つまり、不安定な都市国家という当時の状況において、新しい秩序を築こうというのであれば、卑劣とも思えるような君主論の主張も、それなりに正当性がある、ということらしい。 目的の実現のために、あらゆる手段を講じるべきである、という思想を、マキアヴェッリが、当時の君主のあり方に適用した結果、自然に導かれた結論が君主論であった、といえる。
◇ 目的や状況が変われば、それに応じて、最適な手段も変わる。 今の日本の状況に対して、君主論がそのまま適用できないどころか、むしろ悪い結果をもたらすのは当然であろう。 もっとも、小泉政治の目的は、日本全体の秩序ではなく、自民党という小さな「国」の中に新たな権力を築くこと、であったようにも思える。 そいう意味では、確かに目的にかなった合理的な政治だったのかもしれない。
◇ ところで、この君主論のような、常識を超える著作を残したマキアヴェッリという人物、これがまた興味深い。 サマセット・モームの小説 「昔も今も」 に登場する彼の性格は、実に楽天的で快活である。 また、常に現実を直視する潔さ、手段に工夫を凝らす楽しさ、結果を重視する堅実さ、そういうものを持つ人間として描かれている。 実際、マキアヴェッリの伝記によると、彼の人柄は、まさにモームが描いたようなものであったらしい。
◇ マキアヴェッリは、都市国家フィレンツェの事務官、大統領秘書官として、外交、軍隊創設などに、数多くの実績を残している。 その過程では、良い意味での権謀術数を大いに駆使したようである。 ところが、その一方で皮肉なことに、彼自身は一向に出世することができず、ついには、権力者の交代とともに都市の外に追放されるはめになる。 一つには身分の低さということもあったらしいが、そもそも、彼は権謀術数を自分のために役立てる、ということがどうも苦手だったようである。 様々な手段を駆使することで見事な結果が生まれる、その過程そのものを楽しむことに溺れてしまった、というのは言い過ぎだろうか。
◇ 「君主論」 の思想は、いわば鋭利な刃を持つ道具であって、安易に振り回すのは危険だが、上手に使えば役に立つ。 マキアヴェッリという人は、後先省みず、そんな道具のことばかり考えている、愚直な技術者のような人間だったのだろう。
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